2022-12-01

実質的な「違憲」誇っていい。東京地裁判決を傍聴、感じた希望と葛藤

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松岡宗嗣

「裁判所がある法律について『憲法違反』の判断を出すというのは相当珍しくて、すごいことなんです」

法律上同性のカップルが結婚できない現行の法律が、憲法に違反するかどうかが争われている「結婚の自由をすべての人に」訴訟。2021年3月に札幌地裁で判決が出る直前、原告の弁護士に聞いた言葉だ。

札幌地裁は憲法14条「法の下の平等」に違反するという歴史的な「違憲判決」を下した。

しかしその1年後、今年6月に下された大阪地裁判決では、憲法24条にも14条にも違反しない、原告の請求はすべて棄却という悔しい判断がなされた。あまりに説得力に欠ける差別的で酷い内容だったが、冒頭の言葉を改めて思い出した。

そして昨日、11月30日。この訴訟の3例目となる東京地裁の判決が下された。その判決の瞬間を振り返りたい。

憲法24条2項に違反する状態

時刻は午後2時。

「撮影、開始--」。報道機関による冒頭2分間の撮影が始まり、法廷は静まり返る。筆者は札幌・大阪に続き3回目となる判決の傍聴だったが、それでも心拍数が上がるのを感じた。

撮影が終わり、裁判長が判決を述べる。

「主文、原告らの請求をいずれも棄却する--」。たとえ請求棄却でも、憲法に違反するかどうかが重要だ。動揺せず、判決理由の説明を待つ。

主文に続き、裁判長は判決の要旨を読み上げた。

まず憲法24条1項「婚姻の自由」について、「憲法に違反するとはいえない--」。札幌・大阪でも憲法24条1項の「違憲」は出なかった。まだ望みはある。

次に憲法14条「法の下の平等」について。裁判長は「性的指向による差別にあたるとして、憲法14条1項に違反するとは言えない」と述べた。やはり厳しいのだろうか。もしかしたら大阪地裁より酷い判決になってしまうのでは、と不安が募る。

しかし、裁判長は話を憲法14条から憲法24条2項に戻し、以下のように説明を続けた。

憲法24条2項は「婚姻」の制度や「家族」に関する事項などについて、立法の際に「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」に立脚することを求めている。

「同性愛者は、性的指向という本人の意思で変えられない事由によって、婚姻制度を利用することができていない。パートナーとの共同生活について、家族としての法的保護を受け、社会的に公証を受けることが法律上できない状態だ」

「親密な関係を結んで共同生活を営み、家族を形成することは、人生に充実をもたらす最も重要な事項。個人の尊厳に関わる重要な人格的利益だ」

「これは男女の夫婦と変わらない実態をもつ同性愛者にとっても同じ。同性愛者というだけで生涯を通じてこれが不可能なのは、その人格的生存に対する重大な脅威、障害である」

「『パートナーと家族になるための法制度』は、同性間の人的結合関係を強め、その中で養育される子も含めた共同生活の安定に資する。社会的基盤を強化させ、異性愛者も含めた社会全体の安定につながる」

どんな制度をつくるかは立法府に裁量があるが、「同性愛者に『パートナーと家族になるための法制度』が存在しないことは、個人の尊厳に照らして合理的な理由があるとはいえず、憲法24条2項に違反する状態にある」

判決の説明が終わり、弁護団から「違憲状態」という声が聞こえる。

実質的に「違憲」の判断が出たのだろうか。判然としない気持ちもありつつ、また冒頭の言葉を思い出す。

裁判所が「憲法に違反する状態」と示したことは、相当踏み込んだことなのでは--。落胆しかかっていた気持ちが、徐々に上向いてくる。

裁判所の外では、多くの報道陣が待ち構えている。原告や弁護団が横断幕を広げる。拍手とともにカメラのシャッター音が響く。そこには「婚姻の平等に前進」「違憲状態」の文字。後ろにはレインボーフラッグがはためいていた。

「本人尋問」の影響

2019年2月14日、「結婚の自由をすべての人に」訴訟の提訴の日、筆者は東京地方裁判所にいた。

提訴時も多くのメディアが報道し、勇気を持って立ち上がった原告を応援する声が多数寄せられた。その一方で、同性愛嫌悪に基づく侮蔑的な反応は今よりもっと多かったと記憶している。明確に差別的なものもあれば、当事者の中でも、なぜ国を相手に訴訟などするのか、波風を立てないでほしいといった反応もあった。

そこから約3年。明らかに社会の認識や状況は大きく変わりつつあると感じる。

訴訟を応援する声、むしろなぜ「同性婚」がいつまでも実現しないのか?という疑問。憲法は同性婚を「禁止」しているという誤解は依然として少なくないとはいえ、原告も国側も政府も、そして札幌・大阪・東京地裁も、誰も禁止しているとは言っていない。憲法改正は不要で、あとは国会で法律を整備するだけ。そうした認識も整理されてきた。

確実に、提訴から3年間の訴訟をめぐる報道や、婚姻の平等の実現に向けたさまざまな取り組みの積み重ねが、ゆっくりだが着実に議論を前に進めている。

東京地裁に入廷する原告ら(筆者撮影)
東京地裁に入廷する原告ら(筆者撮影)

今回、東京地裁判決で「個人の尊厳」に立脚し、憲法24条2項に違反する状態という判断が示された背景には、原告らの「尋問」が実施されたことが大きいのではないかと感じた。

当初、東京地裁の田中寛明裁判長は、原告の個別事情は「夾雑物」つまり「余計なもの」だと述べ、本人尋問を認めない判断を示していた。

いま目の前にいる人間--性的マイノリティの命や尊厳の問題に真摯に向き合う気のない態度に対して多くの怒りの声があがり、本人尋問の実施を求める署名も提出された。

結果的に、裁判官の人事異動によって、新たに池原桃子裁判長のもとで本人尋問の実施が認められることになった。

しかし、本人尋問を求める署名を集めている間に、原告の一人である佐藤郁夫さんが倒れ、帰らぬ人となってしまった。

約4時間にわたる尋問を筆者も傍聴したが、どの原告や証人の話も欠かすことのできない、赤裸々な人生の語りや、切実な想いを訴える様子に心動かされた。

なかでも、長年連れ添った大切なパートナーである佐藤郁夫さんを亡くし、病院では病状説明を受けることができなかったよしさんが、「最近は泣かなくなった」といいつつも、佐藤さんの最期に会った際のことを聞かれ、涙でなかなか言葉が出てこない様子に、胸の詰まる思いになったのを強く覚えている。

裁判長はそうした一人ひとりの原告や証人の目を見て、時折頷きながら話を聞いていた。今振り返ると、この本人尋問の実施が「個人の尊厳」を重視する判決につながった部分は大きいのではないかと感じる。

違憲と言い切ってほしかった

今回の東京地裁判決は、実質的な「違憲」の判決であり、誇って良いものだと思う。

「親密な関係を結び『家族』をもつことは、個人の尊厳に関わる重要な利益であり、それは同性カップルも異性カップルも同じ。しかし、同性カップルには『家族になるための法制度』が存在しないことは、個人の尊厳に照らし合理的な理由があるとはいえず、憲法24条2項に違反する状態だ」

こうした判断を裁判所が下したことは「画期的」と言えるだろう。他方で、ここまで言うのであれば「違憲」だとはっきり示すことはできたのではないか、という気持ちも湧いてくる。

例えば、憲法24条が示す「婚姻」というのは異性間のことを指しているという点。これは「男女が子を産み育て、家族として共同生活を送りながら、次の世代につないでいくことは重要な役割だ」というのを背景に、「伝統的に、男女の人的結合に対して社会的承認が与えられてきた」からなのだという。

憲法14条の「法の下の平等」に違反しないという点についても、上記を理由に、婚姻を異性間に限ることは「合理的」とし、性的指向による差別にあたるとは言えないと判断した。

さらに、同性婚への反対意見が、減少傾向ではあるが一定程度あり、こうした「婚姻を男女間の関係と捉える伝統的な価値観」を一方的に排斥することも困難だと、反対派に譲歩するような判断も示している。

婚姻の目的が「生殖だ」とまでは言っていないが、しかし「伝統的に」婚姻制度は男女が子を生み育てるための共同生活を保護してきたことを不問とする点は、その「伝統」が多数派によってつくられ、その裏で少数者の「人権」が侵害され続けてきた点を覆い隠してしまっている。

求めているのは「平等」

また、東京地裁が憲法24条2項について、明確に「違憲」ではなく「違憲状態」だと判断した背景に、「婚姻に限らず、類似の制度など、どんな制度をつくるかは国会に委ねられているから」という点をあげているが、これも問題があるだろう。

原告は今ある「婚姻」制度に法律上同性のカップルが含まれないことが違憲だということを主張してきた。この点について東京地裁は「違憲」とまでは言えないとしている。

その理由は、同性カップルに「家族になるための法制度」がない状態自体は憲法に違反するけれど、例えばパートナーシップ法など、婚姻類似の制度の可能性もあり、どんな制度をつくるか、その裁量は国会にあるからなのだという。

「伝統的に婚姻は男女が子を生み育てるためのものだ」と考える人が一定いる時に、裁判所は一つの“落とし所”として、「類似の制度」の可能性も示しながら、一方で「何も法律がないことは問題だ」と示したのかもしれない。

実際に「少なくとも婚姻類似の制度は、伝統的な価値観とも両立し得るもの」だと東京地裁は判決で述べている。

しかし、原告が求めているのは、婚姻の”平等”、つまり既存の婚姻制度が異性間のみ利用できて、同性間は利用できないという状態を”平等”にしてほしい、というシンプルな願いだ。

これは言い換えると、たとえ同性カップルの関係を保障するために、婚姻とは別の制度を作ったとしても、それではいつまでたっても”平等”を実現したとは言えないことになってしまうのだ。

むしろ婚姻は異性カップルのためのもので、同性カップルには専用の特殊な制度をつくるという考えは差別を固定化させ、新たな差別を生み出すことにつながる。

さらに「伝統的な価値観と両立し得る」という点も、そもそも「伝統的な価値観」自体が多数派によるものであって、「人権」の観点に立つと、その多数派の認識によってマイノリティの権利が排除されている現状を”許容”する理由にはならない。

「個人の尊厳」を重要視するのであれば、むしろ婚姻とは別の法制度に同性カップルを押し込めることが、社会の差別を温存し、「個人の尊厳」を貶めることにつながってしまうのではないだろうか。

法的保障が何もない状態「議論の余地はない」

東京地裁の判決に対し、安堵とモヤモヤした両方の気持ちを抱えている、といった人は少なくないのではないかと思う。

しかし、繰り返しになるが、私はこの実質的な「違憲」の判決を誇って良いものと思う。むしろ「違憲」の状態にあることを強調し、社会に示すことで、婚姻の平等の実現に向けた議論をさらに加速させていくことにつなげたい。

「結婚の自由をすべての人に」訴訟のロードマップとしては、東京地裁判決はまだまだ序盤に過ぎない。今後、名古屋や福岡地裁の判決が続き、各地の高裁判決、そして最高裁判決へと続いていくだろう。

もちろん、この間に最高裁の判決を待たずして、国会で「同性婚」を法制化することが一番の近道と言える。

政府はいつまでも「家族のあり方の根幹に関わる問題で、慎重な議論が必要」と言い逃れ続ける。しかし、札幌地裁は、同性カップルが婚姻による法的効果を一切受けられない現状は、憲法14条に反するという判断を下し、今回の東京地裁は、同性カップルに「家族になるための法制度」が存在しないことは、憲法24条2項に違反する状態だという判断を示した。

いずれも、どんな法律をつくるかは国会に裁量があるとはいえ「何も法的保障がないことは憲法に違反する状態」と示されており、そこに「議論の余地」はない。

国会では連日、旧統一教会と政治の関わりが取り沙汰されている。自民党支持層でも約6割が「同性婚」に賛成にもかかわらず、いつまでも婚姻の平等が実現せず、議論すらされない状況。その背景には、旧統一教会に限らない宗教右派勢力と保守派政治家との関係も大きな要因としてあげられるだろう。

いつまで「慎重な議論が必要」と言い逃れをし続けるのか。今後も続く訴訟の判決が、そうした政府の態度変容につながることを祈りつつ、早急な法整備を求めて引き続き声を上げていきたいと思う。

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松岡宗嗣

一般社団法人fair代表理事

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